住職からのごあいさつ

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今、伝えたいこと。

真福寺住職 田中禅价

平成14年9月秋彼岸 42号
スコーレ秋山学派24会「研究論文・レポート募集」

日本の戦後になぜ独立記念日がないのでしょう。

戦略の失敗を補う戦術の補填はない。それゆえ、敗北した軍隊は反省のみに陥らずよく学ぶのです。戦後の日本は戦前の軍国主義の被害からくる反省のみに陥り、過去の事象を研究検討せずによく学びとることを怠っていました。研究討議し学び未来のために行動を起こそうとすると反対運動で押さえられてきました。

昨年来の教科書問題・不審船銃撃沈没事件・ほかに対応する住民運動にその兆候がうかがえます。過去のあやまちから学ぶ「敗北した軍隊はよく学ぶ」姿勢があらためて必要となる時代になっているようです。
極めて深刻な余談ですが、敗戦後の日本人の精神にいかなるぶれが生じているかをあらわす記事が「週刊文春」平成14年10月3日号にのっていました。以下抜粋し掲載します。

極めて深刻な余談ですが、敗戦後の日本人の精神にいかなるぶれが生じているかをあらわす記事が「週刊文春」平成14年10月3日号にのっていました。以下抜粋し掲載します。

《蓮池さんは「拉致された人」としてたぐいまれな悲劇的な運命を20年以上も生きてくることができたわけで、それは「平凡に大学を卒業して平凡に就職して平凡なサラリーマン」になることにくらべてそんなに悲劇的なことなのでしょうか》文芸評論家中島梓氏の公式HP「神楽坂倶楽部」平成14年9月19日付より

平凡な生活と悲劇的20年を同一の尺度に変換しているのです。

物事に基準があります。人生に取り返しのつかない20年間が自分の選択で為されず他国の北朝鮮という国家的拉致監禁された状態と、平和ボケした国内で安穏として安全を保障された枠組みの中で自己選択して生きた「平凡に大学を卒業して平凡に就職して平凡なサラリーマン」の20年間を同一視する発想が戦後の敗戦を境に精神的醸成がなされた結果の現象面であらわれた一面だとおもいます。

平成14年9月よりさかのぼること51年前、昭和26年9月8日にサンフランシスコ平和条約が署名されました。この条約が昭和27年4月28日公布発効され日本は独立しました。

サンフランシスコ平和条約第一章第一条(b)には『連合国は、日本及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。』とあります。そして、前文には、独立の条件として、アメリカ合衆国の政治体制に包括される国家の枠組み内において承認されることが明記されています。

「連合国及び日本国は、両者の関係が、今後、共通の福祉を増進し且つ国際の平和及び安全を維持するために主権を有する対等のものとして友好的な連携の下に協力する国家の間の関係でなければならないことを決意し、」第7章最終条項第24条「すべての批准書は、アメリカ合衆国政府に寄託しなければならない。」とあります。つまり、独立国承認は無条件無放任の承認ではありませんでした。独立国承認の前提条件は自由主義ならびに、資本主義国家としての経済活動を主軸に「共通の福祉を増進し且つ国際の平和及び安全を維持するため」に国家として独立することが承認される規範の枠組みに沿っての独立でありました。そしてこの平和条約は昭和27年4月28日公布・発効の日本国が世界より独立承認された瞬間でありました。

過去の4大文化は消滅し4大文明として歴史で学んでいます。現在に継承されない文化は過去の遺産として生きても現代社会の発言者にはなれないのです。つまり文化が生きる時、国も生きている。文化が消滅する時その国家も消滅するのです。文化の消滅にならない日本を考えることが大切な時期かもしれません。

平成14年9月17日北朝鮮との国交回復のため小泉首相が訪北朝した。戦後の歴史が57年経過した現在過去の経緯が忘却し「書物も写本3回繰り返されると、烏の活字も最後に馬に誤変して活字となる」のたとえがあるように歴史の経緯も変質する可能性があります。改めて戦後の占領期7年間を調べてみました。

そこでまず、日本の戦前戦後20年間の歴史と占領期7年間の変遷略史は以下のようになる。

 1941年11月 帝国国策遂行要領「御前会議決定」
 1941年12月 太平洋戦争日米開戦「米英への宣戦の勅書」真珠湾攻撃
 1945年8月 日 本 が ポ ツ ダ ム 宣 言 受 諾 敗戦
 1945年9月 降伏文書「官報」号外

天皇及日本国政府の国家統治ノ権限ハ本降伏状条項ヲ実施スル為適当ト認ムル処置ヲ執ル連合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス・・・

1945年9月 『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件』発令

政府ハ「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ連合国最高司令官ノ為要求ニ係ル事項ヲ実施スル為特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ所要ノ定ヲ為シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ得

 1946年2月 マッカーサー・ノート
 1949年   毛沢東指導の中国共産党国家成立
 1950年6月 朝 鮮 戦 争 始まる。
 1950年7月 「警察予備隊の創設に関する吉田首相宛マッカーサー元帥書簡」「ポツダム」宣言ノ受諾ニ
 1950年8月 「警察予備隊令」(抄)公布、政令260号
<  1950年10月 「占領目的阻害行為処罰令」公布、政令325号
 1951年9月 独立国として世界より承認される。サンフランシスコ平和条約合意
 1952年4月 日本独 立 国 承認、GHQ解散

28日 『サン・フランシスコ平和条約』第一章第一条(a)には
 ①「日本国と各連合国との間の戦争状態は、第23条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。」とある。第二章領域第2条にはa~fの各項で戦前の保有領土である「朝鮮・台湾・ほかの領土ならびに、各時代に獲得した各条約委任統治権など全て放棄する条項が記載されています。

2002年9月 日本・北朝鮮党首会談成立(拉致事件8人死亡、4人生存確認) 以上

政治の決定権は戦前(1945まで)は天皇を中心とした日本国民にあった。昭和20年(1945)8月より昭和27年(1952)4月の7年間は連合国軍支配の米国マッカーサーの政治決定による主導の政治体制のもとで日本の国策が決定されていった。

昭和27年(1952)4月の独立より日本政府を主軸として政治の決定権が日本国民に帰結して国策が決定されていった。現在にいたるまで1952年以後の体制は維持されている。

(戦前・戦後占領Ⅰ期・戦後独立Ⅱ期、略式図1)

            │  連合国GHQ支配占領国 │
     天皇     │   マッカーサー     │    日本国政府+天皇
  日本国 政府  │   日本国 政府   │
      国   民   │   国   民     │   国 民
───────  │ ───────  │  ───────────
 明治維新   敗戦45年 連合国支配 52年独立       平成バブル    02年
 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

     戦前        戦後Ⅰ期      戦後Ⅱ期

2002年、平成14年8月31日朝日新聞に「小泉首相北朝鮮訪問」「平成14年9月17日」という記事とともに、関連資料として【北朝鮮をめぐる動き】という戦後の略年表が掲載されていた。以下その一部を記載します。

 1945年8月 日本がポツダム宣言受諾
 1950年6月 朝鮮戦争始まる。
   欠落 (筆者加筆)

 1953年7月 朝鮮戦争の休戦協定調印
 1965年12月 日韓国交正常化

なぜかサンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約公布・発効によりGHQ解散により連合国占領から開放され独立国となった1952年4月が欠落しています。上記の略年表に挿入すると歴史の変遷による日本の時代変化解釈に納得がいくとおもいます。

 1945年8月 日本がポツダム宣言受諾
 1950年6月 朝鮮戦争始まる。
 1952年4月 独立国 サンフランシスコ平和条約 安保条約・GHQ解散
 1953年7月 朝鮮戦争の休戦協定調印
 1965年12月 日韓国交正常化

となる。現代史の年表の作成の中にもこうした意図的排除により、占領軍支配下における政治的決断が連合国支配のもとで決定されていたことと、独立国として日本政府が自国のために政治的決断をするのではまったくの相違があることを理解していただきたいのです。つまり現代の報道をとおして、7年間の戦後の占領軍支配があったことを今の日本人の意識の中から欠落させているのである。上記略式図Ⅰと当時の法律①を参考にみると明らかになります。

発想の原点で誤謬があることは、現代の解釈に多大の誤りを生む結果となるのです。

現在の戦後の法体制は、占領国時代の日本人に決定権がない時代の産物であることを一切ふせて、日本人が決定したように解釈するところに矛盾があることを認識させない意図があります。

戦前が1945年8月15日までと考える。

戦後は1945年8月16日から1952年4月27日までの7年間の連合国支配の占領時代と1952年4月28日サンフランシスコ平和条約公布・発効にともなう独立国承認発効が実現以後の復興時期に分類できる。

明治維新以後の歴史的分岐点は戦前の大日本帝国憲法下の政治機構の日本が崩壊する1945年8月15日までと、敗戦から戦後の独立国承認までの7年間の連合国支配の日本国の政治支配がアメリカを主軸に他国支配に委譲された1945年8月16日から1952年4月27日までの時期と、サンフランシスコ平和条約公布・発効にともなう独立国承認発効が実現した1952年4月28日以後の時期の3期に分類できる。

 “日本の敗戦は、1945年8月15日のポツダム宣言受諾による降伏で終わらなかった。もちろん法的には、その7年後、平和条約が発効するまでは戦争状態は終結していない。【上記略年表参照1】ただ、それだけでなく、この7年間の事実上の主権喪失と外国による占領は、日本社会と日本人の精神構造に深甚な影響を及ぼした。”〈「吉田茂とその時代」PHP2002年発刊ヨリ〉とあるように占領下の7年間が日本の歴史に実在したことが欠落しているのです。敗戦即独立国承認とはならず、7年間の連合国占領軍が駐屯し、マッカーサー指導のもとで国政が運営されていた時代があったのです。この時代に東京裁判・横浜裁判がある。“満州にあっては、関東軍将兵の帰国を認めず、まず作業大隊に編成して満州内の産業施設の撤去とソ連への搬出に使役し、その後はソ連領内に拉致して強制労働をさせた。その数は厚生省の資料によれば、ソ連抑留者57万千人、最長は11年余に及び、5万人余が虐待と栄養不良のなかで死んだ。また約155万人いた民間人の死亡者は17万6千名にのぼった。”〈「吉田茂とその時代」PHP2002年発刊ヨリ〉とある。こうした占領時代なのである。この時代背景を意識しながら「はがき伝道」139号で、A級戦犯東条英機のことを書いたのです。

 『50数年前に東条英機は、昭和23年12月23日にA級戦犯として絞首刑された。その彼が以下の短歌を残している。

「今ははや心にかかる雲もなし 心ゆたかに西へぞいそぐ」
「日も月もほたるの光さながらに行くてにあみだの光輝く」

           東条英機元首相 作 昭和23年12月23日没

 「勝者の裁き」により戦争責任者としてA級戦犯となり絞首刑となった元首相の短歌です。歴史の事実関係というものは、敗者に語るステージはないのが普通です。死刑を目前にした東條英機の心がうかがえます。祖国の為に生きた彼が結果として悪役の名をはられて処刑された一生について現在まで正当な光をあてて考究した研究者がいたでしょうか。単なる軍国主義者として扱い、日本の恥として歴史の舞台から抹殺しているにすぎないような気がしています。』と記事にしました。はたせるかな、戦後のマスコミ以下情宣活動のなかで誤謬の部分のあることを伝える放送がありました。それは平成14年8月23日TV放映で「BC級戦犯の裁判が横浜裁判としてなされた実体の隠された事実の証言者の発言」でありました。今後も、徐々にですが事実解明がなされるなかで戦後のゆがんだ事実認識が訂正されていくことを願ってやみません。

BC級戦犯の裁判横浜裁判であやうく処刑される難を逃れた話があります。

昭和39年発刊の柴山全慶老師著「越後獅子禅話」のなかに収録されている。以下抜粋します。 「これは大東亜戦争後の実話でありますが、先年揚子江沿岸のある都市で激戦が行われた時、相当数の現地住民が、中国兵と共に殺されたことがあり、終戦後これが問題となって捜索せられ、その直接関係者として、その戦闘に加わった某中隊長が戦犯者として捕らえられ、ついに裁判の結果、死刑が確定したそうであります。ところが、この中隊長はもともと浄土宗の僧侶の方であり、招集された将校であって、生え抜きの軍人でなかったのでありますが、上官からの命令でやむなくその時の処理に当たったのみで、実際には何の罪もない方だったというのであります。ところが、その辺の事情を明確に証明する証拠の手がかりが何一つ無いために、どうすることもできない立場にあったのであります。しかし、幸運なことに、その殺害された人々の遺骨を改葬するため、その埋没地を掘り起こしていた所、一本の卒塔婆がでてきたので、一体これは何か、という事になり、だんだん調査したところ、すでに死刑を宣告せられている某中隊長が、もともと宗教家であったがために、埋葬される不幸な人々の冥福を祈り、心からその菩提を願った証拠品であることが明白となり、早速無罪を宣告されたのみか、その怨親平等の精神をたたえた、というのであります。つまり、一本の卒塔婆が縁となって、事件は一転してしまったのであります。」 また、1級戦犯東条英機の息子は戦後、国産飛行機YS-11の開発の指導者として陣頭指揮をとりました。優秀な人材として、祖国の誇りを失わないために日本人だけで開発設計し実現した国産のプロペラ飛行機でした。東條英機の精神に澱みがあるなら、その子供がなにゆえに国の為に自己の能力を発揮するだろうかとおもいます。

じつは、139号を850人のみなさんに発送した後で、この文章で、自分が右翼の国粋主義者と断定する人も現われるだろう。ハガキの送付を断ってくる方も現われるだろうと思っていました。事実そうした方もありました。しかし、戦時中の実情を知る方からも意見に賛成の意志を伝えられてきました。日本に住み家族の平和を願い、やむ終えず戦争に駆り出された戦士を追悼することから出発すべきと考えます。日本の終戦記念日は昭和20年8月15日をもって決定されています。昭和26年9月8日サンフランシスコ平和条約合意、昭和27年4月28日公布・発効し独立国として再出発した。昭和27年4月28日日米安全保障条約公布・発効した。GHQ解散までの7年間、敗戦国として連合国軍の占領下におかれていた日本があったのです。昭和27年4月28日、世界の承認をえて独立国となります。各国に独立記念日があります。なぜに日本国のみ独立記念日がなく、マイナーな終戦記念日のみクローズアップされるのでしょう。昭和27年5月1日明治神宮外苑において、第23回メーデー中央大会宣言がなされる。以後5月1日のメーデーはマスコミが取り上げるのにもっと国家として大切な独立記念日が消失しているのでしょうか。素朴な疑問がわいてきます。【この素朴な問いに答えられるものは歴史をおいてほかにない。江戸時代晩期の儒者である佐藤一斎の箴言集『言志四録』に、「いまの社会は過去の歴史から生じ、これからの世界は活きた歴史である。」という意味のことばがあるが、社会が人間の幸福を追及する構造をもっているかぎり、歴史も同じ構造をもっているはずである。つまり、歴史を知ったり学んだりすることは、歴史を追及することにほかならない。】『歴史の活力』宮城谷昌光著。この素朴な疑問を問いなおす時、失われた昭和20年代を見直すべきと考えるのです。誰もが語らないのに誰もが知っていて経験していてけして語ろうとしない近くて遠い昭和20年代の歴史なのです。敢えて言えば、なぜ独立記念日がないのですか。外国支配の管理下におかれた7年間ののちに主権独立国として世界から承認をされ日本国は再出発した日があるはずです。

国栄えてこその国民の安寧であると信じます。日本人として左翼も右翼も中道も国民等しく日本国という大地が自由に闊歩できるためには世界から日本国は日本人の所有地として認めますという承認をいただいた独立記念日こそ大切な忘れてはいけない記念日であると考えるのです。

西洋も東洋も森羅万象生ある物は必ず滅びるの喩えの通りです。幸福を願い、無事に一生を送る願いはだれも同じです。国家にも栄枯盛衰があります。世界史の世界において他国から侵略され属国となった国家の再出発はなかなかできないものです。ある国は滅亡し、現在アフガニスタンでは100万人の戦災孤児が路頭をさまよい、ベトナム戦争後ボートピープルの難民が発生し、70年代カンボジアではポルポト派が100万人以上の虐殺を実行し、クルド人・シティーロマ・難民・数限りない流浪の民が生じては消滅していきました。なぜか、現代の時代に戦争に負けて属国となり、7年後日本の大地が日本人の主権を承認され返還された希有な国家が日本だったのです。日本という大地が日本人に返還され、主権独立国家が世界各国から承認を得られたことも世界史的にみると奇跡にちかいものがあります。1860年代世界の列強国の植民地化を恐れて政権交代して明治維新の時代に移行した日本が、1945年に敗戦領土消失と共に占領支配下におかれます。植民地化下国家の悲劇は世界史で数限りなく知ることができるはずです。

現代社会でさえ、自国の土地を追われてさ迷っている流浪の民が増え続けている事実を忘れているのです。にもかかわらず、昭和27年(1952年)独立国として承認を得ることができたのです。ありがたいことです。その感謝の記念日がロストしているのです。おかしいじゃありませんか。歴史を学び、伝統文化の大切さを伝承し継承することこそ、幸福という「無限の清風」を体感できるのです。生きていく上での、生き方は個々それぞれ無限です。しかし、日本人という共通の信じる愛国心が大切なのです。軍国主義否定・帝国主義否定、して尚且つ大切なことは日本人が故郷日本を愛する国民一致の共通の心だとおもいます。今日本人に欠落している心が日本人という共同体意識を否定しつつ個の自由を大切にした国民の意志が分裂分散型になりやすい構造になっていることだと思います。国家の意志決定ができない民族になっているのです。 日本とアメリカの違いは、アメリカにおいてはアメリカ人の共通項を国旗のもとに思想宗教政治民族をこえて心を一つにする教育を徹底しているということです。

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