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はがき伝道

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  • はがき伝道 2020年8月4日

    はがき伝道 令和2年 8月 382号 真福寺

     

     私の肉体は火宅という牢獄であり、獄舎なり。

     その牢獄を一生の庵(いおり)として

    過ごすことになる。

     

     であるならば、

    私の一生の住処(すみか)に

    余計な毒をため込むことはない。

    食は内臓に優しいものを食し、

    労(いた)わるべきである。

    毒となるものは

    獄舎に入るべからずである。

    獄舎変じて

    極楽の舎となすべきである。

     

     肉体という獄舎に

    安住しているのが心である。

    その心も

    毒となる怨憎苦を

    心に入れないことである。

    毒となるものを捨て去れば、

    自然と笑顔、優しい心が

    井戸水の如く

    湧き出てくるものである。

    心まで牢獄の火宅にしてはいけない。

     

     肉体という牢獄に

    宿るものは心である。

    その心に

    生じやすいものが怨憎である。

    自我中心に心を育てると

    怨憎という毒を

    育てる心となる。

    自利利他の心をもって

    生きることで

    怨憎の毒は消滅し、

    心穏やかな

    優しい心になっていくのである。

     

     生かされている

    私の肉体や心を

    牢獄や怨憎苦の心にするのは

    他人ではない。

    私本人である。

    私が自分自身で

    一生を地獄の世界にするだけなのです。

    だから、私はそんな一生は

    送りたくないと思っています。

    地獄極楽紙一重、

    心を変えれば、

    即極楽となると思って生きています。

     

     その変えるポイントは、

    自利利他の心で、

    即今只今、

    今ここに生かされている

    幸せを大事にすることである。

    私の中に

    悪魔も天使も生きていることを自覚し、

    悪魔の心をおこさず、

    できるだけ天使と楽しくお付き合いすることを

    大事にして心を育てることである。

     

     

     

  • はがき伝道 2020年7月17日

    はがき伝道 令和年 7月 381号 真福寺

     

    誇りを持つこと

     

     私は、人間として生まれ、

    今ここに立っている。

    自分に誇りを持つこと。

    自分を産んでくれた両親に

    誇りを持つこと。

    自分や両親まで

    生命をつなげてくれた

    御先祖様を尊敬し、誇りを持つこと。

     

     そのご先祖様は寺に休んでいます。

    尊敬し、誇りをもって自分を守ってくれた

    ご先祖様が眠る寺に誇りを持つこと。

    それは自然に沸き起こるものであると考える。

    自分と御先祖様と寺は

    繋がった縁である。

    私はその大きな魂の集まった大海に浮かぶ

    小舟のような存在である。

    こんな幸せはない。

    自分に誇りを持つことが大事である。

    今、ここに、

    生かされていることを感謝し、

    一生懸命生きることが

    大切であると私は考える。

     

     私は縄文時代より現代まで

    連綿と繋ぎ伝えてもらった

    命のおかげで生きている。

    こんな幸せはありません。

    当たり前にそこにいて、

    当たり前に会話して、

    当たり前に毎日を生活する。

    それがなんと大事なことであり、

    幸せなことかと思うこの頃である。

     

     去年の12月に

    生活していた当たり前が、

    コロナ感染症により、

    半年後の今は、

    もう当たり前でない

    毎日の生活となっている。

    コロナの疫病が世界を動かし、

    世界の大変動が起こりかねない

    経済生活に激変しているのが

    今である。

    過去から現在まで

    そうしたパンデミックを経験しながら、

    ご先祖様は生きて、

    生き抜いて

    私に命をバトンタッチして

    繋いでくれたのです。

    ご先祖様に感謝です。

     

     

     

  • はがき伝道 2020年6月17日

    はがき伝道 令和2年 6月 380号 真福寺

     

    『生きている私』

     

     この世に生まれ出ることは、

    自分の意志で出来るものではない。

    父母より生を受けたというが、

    父母の前は、

    一人の男性がいて、

    一人の女性がいた。

     

     この地球上の数十億の人間の中の

    一人一人だ。

    その男性と女性が、

    それぞれの場所で生まれて、

    それぞれの両親に育てられ成長した。

     

     乳幼児から少年少女時代を経て、

    父母に育てられ、

    やがて青春時代を迎えて、

    男性と女性はある時

    ある場所

    ある状況の中で出会った。

    これは奇跡だ。

     

     そして、縁があって夫婦となった。

    これも奇跡だ。

     

     二人は愛し結ばれ、

    かつて少女だった妙齢の夫人は

    身籠って母となった。

    これも奇跡だ。

    28日周期で訪れる、

    ある人ある時の

    決定的瞬間に、

    2億とも3億とも言われる

    精子の中の一つが、

    壮絶極まる生存競争の果てに、

    卵子と出会い、結ばれる。

     

     選ばれし勝利の一瞬だ。

    この時卵子は戦い疲れて

    辿り着いた勇者の精子を

    抱くように迎え入れて

    優しく静かに、

    しっかりと新しい

    生命への活動を始める。

    生命のなんという

    荘厳なイニシエーション(儀式)だろうか。

     

     偶然が偶然を呼び、

    その偶然が奇跡を生み、

    その奇跡が新しい奇跡を起こす。

    果たしてそれを偶然というべきか、

    奇跡というべきか。

    いまここに

    自分が生きているという事実。

    『運命を拓く』中村天風より

     

    すべて、自分が今日あることへの

    絆と縁に結ばれた必然。

    そのものではないかと思う。

     

     

     

  • はがき伝道 2020年6月2日

    はがき伝道 令和2年 5月 379号 真福寺

     

    『かあちゃん』

     

     「かあちゃん」は平成26年4月14日旅立った。

     今年はコロナ伝染病の真っ只中での七回忌である。

    何かにつけて、かあちゃんを思い出す。

    “囲碁のオフ会”の“アマリンさん”から

    命じ日お花を頂いた。

    お礼が遅れて電話した。

    その時、“かあちゃんのことは忘れませんよ”と言われた。

     

     昨年12月、96歳で父が旅立った。

    私の目の前から妻や父が消えていって

    はじめて気づく思いがある。

    妻や父に限らず、

    多くの人達のご縁と絆で

    生かされて、

    今ここにいることを実感している。

    やり返しのきかない人生と思っていても、

    失ってはじめてわかる実感である。

    人は皆、人に言えない悲しみや

    歓びを抱えて生きている。

     

     夫婦の呼び合いも「田中くん」から

    「あなた」となり、「とうさん」、

    時には「和尚さん」と呼び。

    私は、出会った頃は坂口と呼び、

    「田中」の姓に変わり、

    「美世子」、「かあさん」「かあちゃん」になった。

     

     今七回忌を迎えて、

    思うことは時に喧嘩をし、

    時に仲直りして

    いつしか50年近い夫婦生活をして、

    今の風景を作り出してきたのだということを思う。

     

     安岡正篤先生は

    「人に大切なものは

    知識よりも、才能よりも、

    何よりも、真剣味であり、

    純潔な情熱である」

    と言っている。

    かあちゃんはそんな一生を

    生きた女性であったと思う。

    「語らざれば憂いなきに似たり」

    という言葉が似合う、

    「かあちゃん」はそんな妻でした。

     

     

  • はがき伝道 2020年6月2日

    はがき伝道 令和2年 4月 378号 真福寺

     

    「こつこつ」

     こつこつ こつこつ 書いてゆこう

     こつこつ こつこつ 歩いてゆこう

     こつこつ こつこつ 掘り下げてゆこう

     

    「悩める子に」

     だまされてよくなり、悪くなっては駄目

     いじめられて良くなり、いじけては駄目

     踏まれて起き上がり、倒れてしまっては駄目

     いつも心は燃えていよう、消えてしまっては駄目

     いつも瞳は澄んでいよう、濁ってしまっては駄目

    坂村真民

     昨年12月18日、

    私の父であり、東光寺住職を

    70数年務めた師匠が96歳で旅立った。

     

     今、はからずも師匠と書いたが、

    父が若いころは

    決して師匠なんて書くことはないと思っていた。

    そんな私が、70の年を間近にして、

    自分の愚かさに気づき、

    自分を産み育ててくれた父母の恩を感じ、

    「ありがとう」の心を

    心底伝える気持ちになるために、

    親子の隙間を埋めるのに、

    これほどの時間がかかるのだと実感している。

     

     この詩は、父そのものの人生と私は思った。

    父は、産みの両親と、

    1~2歳で別れて、

    田中の姓に変わった。

    以来父の人生は

    真民先生の詩のようなものだったのだろうと、

    父の死後知ることになる。

     

     生前、父はほとんど自分の出生について

    語ることなく旅立っていった。

    苦労と苦悩と笑顔で96年、

    こつこつ、こつこつ、

    唯こつこつ生き切った

    父の人生であったと今感じている。