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はがき伝道

2019.10

  • はがき伝道 2019年10月21日

    はがき伝道 令和元年 6月 368号 真福寺

     

    己事究明

     

    一握りの手中には一握りの今ある宝がある。

    それを捨てない限り

    新しい生きる希望の宝をつかむことはできない。

    一つの想念を深層に澱ませて、

    別の理念を注ぎ込んでも心に染み込ませることはできない。

     

    中村天風先生がカリアッパ師よりさとされた言葉がある。

    それは「コップ一杯にした冷たい水を捨てずに

    温かい水をコップに入れなさい」と言ったそうです。

    天風先生はそれは無理だと即答する。

    すると師はお前はその無理を知っていながら、

    生きているその姿は過去の想念を心から捨てずに

    心のコップに別の理念を入れようとしているのだ!と言います。

     

    生死をさまようような病気を治すために

    師についてインドまで来たお前は

    私に心の深層で無理と思い信じようとしない想念を

    心の根底で捨て去っていないのだ。

    表層の心は師を信じていても

    深層の心は信じていないために、前に進まないのだと言って、

    天風先生を怒ったといいます。

     

    38億年、生命が誕生してより成長している古脳に

    刻まれた生きる知恵の深層の心に、

    100万年前に生まれた知識の新皮質の表層の心が

    同一方向に向かうとき、成功の喜びを獲得する。

     

    しかし、深層の心と表層の心が同一方向に

    噛み合わさらない時、心の乖離が生じる。

    その時異層の不合理の心は

    その人の人生を崩壊と失敗の世界に導くことになるのだ。

     

    自分が自分の本心にまで掘り下げて

    磨く努力をして、日々研鑽することが大事である。

     

  • はがき伝道 2019年10月21日

    はがき伝道 令和元年5月367号 真福寺

     

    令和元年5月 青空に鯉が泳ぐ節句の季節である。

    平成2年10月より毎月30年間書き続けた「はがき伝道」も今回で367号になります。

    母を見送った平成初年から書き始めいつしか令和改元を迎えました。

     

    「あおいくま」

     

    (あせるな おこるな いばるな くさるな まけるな)

     

    もともとは「おいあくま(おい、悪魔)」で

    京都のあるお寺に伝えられる言葉だそうです。

    コロッケの母は、「人生の大切なことは、この五つだ」と言っていた。

    4歳頃からコロッケはそれを見て、

    毎日眺めて、口癖になっていたそうです。

    本当の意味が分かったのは

    「モノマネ王座決定戦」初優勝をしたときだそうである。

    他人に負けるなと思っていた「あおいくま」は

    自分自身に対する言葉であると分かった時、

    自分を励ます言葉になった。

     

    母には語り尽くせぬ感謝と思いがあります。

    母は子供のためなら

    命がけで守り育てる力を持っています。

    母は貧乏のどん底にあっても、

    笑顔で「へのへっちゃら」という顔で笑い飛ばして、

    子供を育てます。

    つらい苦しい時があったら、笑いましょう。

    福の神が笑って応援してくれるはずです。

    令和元年これからどんな時代がくるかわかりません。

    しかし、生きていれば必ず良いことがあります。

    一日一日を笑顔で送れますように。

    人生、雨あれば晴れもあり、いろいろです。

    ピンチの時には童謡の「雨降り」を歌いましょう。

    「雨雨フレフレ母さんが

    蛇の目でお迎え嬉しいな

    ピンチピンチ、チャンスチャンス、ランランラン」

    こんな気持ちで笑って生きたいものである。

     

     

  • はがき伝道 2019年10月21日

    はがき伝道 平成31年4月 366号 真福寺

     

    「即今只今」「春面面」

     

    山田無文老師は“即今即今”“只今只今”と言われた。

    今の今の中に過去も、未来も、内包している。

     

    経営哲学者のドラッカーは、著書の中で

    「すでに起こった未来を探せ」と言っている。

    社会は今、少子高齢化社会のひずみを声高々に叫んでいる。

    しかし、ドラッカー流に言えば、

    人口動態の統計表を見れば一目瞭然である。

    今の若者が誕生した時の出生数で増えもせず、

    減りもしない現実がそこにある。

    つまり20年前の出生数、30年前の出生数はそのまま、

    その時に現在の社会現象を決定しているのである。

    その時に政治、経済、一般庶民の世界で

    どれほど20年後、30年後の今を考えていたかということです。

    1980年代にデジタル社会は一部で叫ばれていても、

    デジタル社会の未来図を思い描いて、

    行動を起こした人はどれほどいたでしょうか。

    即今の中に、未来はあるのです。

     

    洋の東西を問わず、

    今ここにすべての情報が眠っている。

    ただ気が付かずに見過ごしているだけだ。

    “はよ気付け、はよ気付け”と

    先師がたしなめているのです。

    光陰可惜である。

    月日は刻々と過ぎてゆく。

    あんたの命は減っていくよ。はよ気付きなさい。

    たった一つの命ですよ!

    今ある中に生きてゆく道筋を見つけなければ

    何の人生であったかと後悔するよ!

    あの世に行った時閻魔様に生きてるとき

    何をしていたか、馬鹿者ー!と。

     

    自己本来の面目を究明するためにも己事究明することだ。

    蓋天、蓋地、いっぱいに満ち満ちている

    生きている喜びを満喫することである。

    無限のの清風春面面というところです。

     

  • はがき伝道 2019年10月21日

    はがき伝道 平成31年3月 365号 真福寺

     

    「宇宙無双日 乾坤祇一人 うちゅうむそうじつ けんこんただひとり」(五灯会元)

    宇宙に同じ日はない 地球にわれただ一人

     

    龍神観音様は自力の舟であり、他力の風でもある。

    虎は山を背負って百獣の王となる。

    龍は雲を抱いて天恵を得る。

    人間は天と地のエネルギーに守られて生きる。

     

    北畠聖龍氏は「龍と共に生きる」と題して

    一文を書いている。(大法輪86-3)

    「“共に生き、共に栄える”

    全てのいのちは、宇宙のはじまりからつながってきたものです。

    出来事は、歴史の中の大勢の人々の努力、助け合いで生まれてきました。

    全てのものが、網の目のように縁でつながっています。

    私はすべてのものとつながっていて、

    私の中には全てのものが含まれているのです。

    他の為に行動することにより、

    自分も周りも幸せになるのです。

    互いに、輝かしあい、共に生き、共に栄えましょう」。

     

    人は共存共栄するために、

    自力の舟を磨き、社会という他力の風を受けて生きていくべきである。

    何を行うにしても困難に遭遇するものだ。

    それを承知の上で全身全霊を傾けて行えば

    何事も成功するものだと思う心が大事。

    己事究明とは全身全霊になりきれるまでつきつめていって

    確固たる信念を心身の中心に

    御柱のようにうちたてることである。

    己の御柱は他人の御柱では代替できないほど

    金剛不壊心でなくてはならない。

    金剛不壊の全身全霊を鍛錬するために

    坐禅専一になりきることが大事である。

     

  • はがき伝道 2019年10月21日

    はがき伝道 平成31年2月 364号 真福寺

     

    「深耕の説」

     

    1978年(昭和35年)に安良岡先生は

    「中世文芸としての五山漢詩文」の中で、

    義堂周信の一篇を載せている。

    周知の通り、義堂周信は、空華道人ともいい、

    1328年に生まれ、1388年に没した南北朝期の禅僧である。

    彼は「空華日用工夫略集」という日記を残している。

    円覚寺、建仁寺、南禅寺、瑞泉寺等々に住した五山僧です。

    以下、安良岡康作先生の文を引用させて頂きます。

     

    義堂周信の『空華集』巻十五に

    「深耕の説」一篇がある。

    ある時、義堂が野へ出てみると、

    大麦の畑があって、よく見ると同じ畝の中に、

    熟し方の異なるものがあった。

    なぜそうなっているのかと、

    年老いた農夫に尋ねたものがった。

    なぜそうなっているのかと、

    年老いた農夫に尋ねたところ、

    なまけ者の百姓のしわざだという。

    その理由を問うと、

    大体、土地というものは、

    浅く耕しておくと、種をまいても、

    必ず早く熟しはするが、茂に至らない。

    深く耕しておくと、種をまいたものは、

    晩(おそ)くできて、大きく肥える。

    したがって、農業を学ぶ者は、

    耕すことの浅いのを心配して、

    晩くできるのを心配しない。

    なまけ者の百姓は、力を集中せず、

    土の耕し方にも深い、浅いがあるために、

    麦の出来具合にも早い、晩いがあるのだと答えたという。

    義堂は、この老農夫の言葉に感銘して、

    「ああ、今の吾が徒や、道を耕すこと深からずして、

    名の晩(おそ)きことを患(うれ)ふる者、

    豈、老農の言に愧(は)づること無からんや。」

    と述べているが、ここにこそ、中世的「理(ことわり)」を、

    自己の経験に即して把握し、

    確立している表現を認めることができると思う。