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はがき伝道 2018年9月15日
はがき伝道 359号 ひと手間
はがき伝道 平成30年9月 359号 真福寺
「ひと手間」
「すべての仕事に『ひと手間』を加える。
その積み重ねが
他社にはできない付加価値に変わる」
と繊維商社「丸眞」の社長は言っている。
座学の知識も大事だが、
現場の実地から学ぶことが大事である。
現場に学ぶためには、
常在戦場の気持ちをもって
「ひと手間」の工夫を毎日考え、
トレーニングし、
日々、己事究明の精神を忘れず、
ひとつことに専心努力することである。
他人の話を聞いて
「そうだね」と思うだけでは
自己の能力向上は図れないのだ。
現場の本番一回を実施するために
事前の反復練習は
10~100回必要とする。
実践、考察、新しい思考による
発見の実践、実践の反省、事前の練習という
繰り返しの中で、
新しい気づきから
「ひと手間」の実践が生まれるのだ。
「ひと手間」の実践の失敗を恐れず、
改良、考察、再考察から生まれた
新たな「ひと手間」の実践をすることで
成功の方程式が生まれる。
事前のトレーニングを繰り返すためには
内面にそのことをすることが
「大好き」で「楽しい」という
感性の凄まじい内発的発動がなければ無理である。
今を生きていくための
「ひと手間」を考え、
実践していくことを楽しむことが
幸福成功の秘訣かもしれない。
物事の成功は久しく続けることが第一である。
続けなければ完成はないのである。
中国のことわざに
「道は近くとも、
行かなければ到達せず、
事は小さくても、
行わなければ成就しない」
とある。
成功を手に入れるにはゆっくりあきらめず、
愚直に研鑽努力することである。
「ひと手間」の努力を!
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はがき伝道 2018年8月23日
はがき伝道 358号 「危機管理」
はがき伝道 平成30年8月 358号 真福寺
「落語家の危機管理」と題して
立川談四楼が平成30年6月11日付日経文化面で
こんなことを語っている。
落語家には
前座、二つ目、真打の三つである。
二つ目、真打の全員が結構ハードな
前座修行を経験して
精進するのだそうである。
前座の時代を立川談志は
「修業とは理不尽に耐えることなんだ」
と言っていたそうです。
ベテランは異口同音に
「真打になった時より
二つ目になった時の方が
嬉しかった」と。
落語家の危機管理のルールは、
兄弟子、先輩が言われることは
「いいかい、すぐに謝るんだよ」
「言い訳は御法度だよ」
とにかく謝罪が先なんだ。
謝ると『次は気をつけな』となる。
私も寺で小僧をしたことがあります。
寺に入ると兄弟子や、
修行から帰ったばかりの
バリバリの雲水の先輩さんがいました。
入ったその日から
日点、掃除、朝課、食事
なにからなにまで知らぬことばかりでした。
何をやっても怒鳴られ
「バカ、マヌケ、よくそれで大学に入ったな」でした。
頭にくることばかりでした。
そんな時に、
修行から帰ってきた先輩が
私に教えてくれた言葉は
「ここはな、
白い物を師匠が黒と言ったら、
理屈無しで黒だと言うことを覚えろ。
それが小僧のルールだ。
先輩が何を言っても『ハイ』と言え。
口より先に体を動かせ」でした。
改めて思い出しました。
あの小僧生活があったお陰で
今の私が無事に
生きているのだなぁと思った。
「まさに小僧修行時代の危機管理」でした。
厳としたルールを守っている組織が
長期的に繁栄し、存在する。
それが組織に伝承されたルールであり、
良き伝統ということになる。
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はがき伝道 2018年7月28日
はがき伝道 357号 「己事究明」
はがき伝道 平成30年 7月 357号
「人生に近道はない、まずは己事究明が先である」
桃栗三年、柿八年。
実がなるためには時間がかかる。
あせって結果を求めても無駄である。
納得のいく結果を得るためには
修養研鑽がいるのである。
物事の機が熟するために必要な時間がある。
時節因縁を感ずべし。
途中で機が熟するまで
我慢出来なくなって
諦めてしまいがちだ。
短絡的にすぐ結果を
求めてはだめである。
思いがけない転機が
いつ訪れても対応できるように、
日頃からしっかり自分を
磨いておかなければいけない。
怠らずに自分磨きを続けておれば
必要とされて仕事の方からやってくるものである。
自分磨きをしていれば、
自然に繁栄黄金の華が咲くのだ。
小さな積み重ねの努力が大事である。
積み木も早く高くしようと
縦にだけ積み過ぎると倒れてしまう。
土台をしっかりと横にして
積んでいくと
高く積めるようなものである。
早く結果を出そうとすることは
人生の積み木崩しをするようなものである。
地道にやってきたことの積み重ねによって
人生の花は咲くのだ。
馬鹿になりきって
地道に生きることは大変なことだ。
他人の目は気になり、
横道に目が向くものである。
しかし、一途にこの道と決めた方向を
研鑽努力し、
地道に生きて学習することを
うまずたゆまず実行し
自分磨きに徹することが
成功の秘訣かもしれない。
他人の芝生は良く見えるものである。
他人に振り回されて
横道にずれても
自分の本筋は磨かれないことを
覚悟すべきである。
禅の世界は深く、
知ろうとすれば
山林に迷うがごとく、
非力の自分を実感するのが
本当のところである。
禅の己事究明に徹することは
大変なことである。
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はがき伝道 2018年7月28日
はがき伝道 356号 非力
はがき伝道 平成30年6月356号 真福寺
「非力の菩薩、人を救わんとして溺れる」
山口師の言葉が心に止まった。
日大アメフット選手の悪質タックルが
世間を騒がせている。
米・北朝会談が実現するかしないかという今、
この文章を書いている。
山口師が70年代当時、
禅の師匠に入門して間もなくのとき、
師匠から諭された言葉が
「非力の菩薩、
人を救わんとして、溺れる」
でした。
山口師は世界平和は
いかにしたら実現できるか
教えてほしいと言うと、
師は
「まずお経を覚えろ」
と言われたそうです。
そこでまた同じことを師に
「世界平和はいかにしたら…」
と問うたそうです。
すると、師は室内に山口師を呼び、
上記の言葉を言ったそうです。
つべこべ言わず、
まず「お経を覚えろ」。
寺の作務を専一に
一生懸命することが大事と言ったのです。
「目前心後」という
世阿弥の言葉がある。
眼前に起こることに
心を囚われて
自分の力を磨くことを忘れたら
何もかも実現できない。
心はいつも明鏡止水の心境で
客観的に観察しないといけない。
他人を客観的に見ることは出来ても、
なかなか自分を客観的に
見ることはできないものである。
少し言葉を変えれば、
社会批判は出来るが、
自己の実力を磨いていく努力は
出来ないものである。
そのことを師は山口師に
目前の禅寺における作法である
「お経を覚え、作務に心を集中しなさい」
と言ったのです。
世間のことを気にするような時ではない。
力を持たない自己の現実の
今の非力な自分の姿を
しっかり認識して、
精進しなさいと諭されたのでした。
70年代は安保、ベ平連、沖縄返還、
成田空港反対、連合赤軍、安田講堂事件、
三島由紀夫割腹事件、学生運動等々の
真っ只中の時代に、
山口師は禅の世界で生きる道を選んだのでした。
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はがき伝道 2018年5月5日
はがき伝道 355号 思いやり
はがき伝道 平成30年5月355号 真福寺
「おもいやり」と「おもてなし」
菅淳一氏は
『平成24年3月11日
東日本大震災が勃発したときの
被災地での惨状下においてもなお、
他を思いやる
日本人の心根の優しさに
世界のメディアも世界の人々も驚愕した。
そして、アメリカの司令官は
あの惨状の中でも忘れない
日本人の他を思いやる心根の優しさについて、
日本人は日々どんな訓練をしているのかと
問うたのである。
日本人が当たり前にしていることが、
世界ではそうではなかった。
「ものづくり」や「おもてなし」だけでない、
国民一人ひとりが持つ
「おもいやり」の心があることを世界は知った。
日本の国が千年に及ぶ歳月をかけて
育んできた「禅」の心が
ここに今宿っていることを
知ったのである』。と語った。
禅の心の一千年の伝統は
縄文文化一万年の基盤の上に
生まれた文化である。
一万年の精神文化から生まれた
優しい真心の「おもいやり」。
共存共栄の他者への優しさの精神の上に
一千年の禅文化があると思うのである。
先史時代より今に至る
日本文化の中で、
昭和20年の他国に敗北した経験以外に、
他民族に日本国土が支配されていない
一万年以上の歴史を持つ国家なのである。
そのことが精神文化の基礎に
「おもいやり」「やさしさ」「おもてなし」
という優しい風土を生んだのだと思っている。
世界でも希有な国。それが日本と言える。
御先祖様の絆の「おかげ」で今私はここにいる。
となり近所の人の助け合いで
今の私は無事生活し、
生きている。
「ありがたい」ご縁に「ありがとう」である。
しかし、「おかげさま」と「ありがとう」の心が
戦後70年経過し、忘れられ始めている時代が今である。